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野﨑のざき 武左衛門ぶざえもん

活躍かつやくしたとし:1789~1864年

関係かんけいする市町しまち倉敷市くらしきし

なにをしていた人?:実業家じつぎょうか

関係かんけいのある情報じょうほう

野﨑家塩業歴史館のざきけえんぎょうれきしかん旧野﨑浜灯明台きゅうのざきはまとうみょうだい

 野﨑武左衛門のざきぶざえもんは、寛政元かんせいがん(1789)ねん今の倉敷市児島味野いま くらしきしこじまあじのまれました。
 父が事業ちち じぎょう失敗しっぱいし、とても苦労くろうしてそだちましたが、文化ぶんか4(1807)ねん武左衛門ぶざえもんが18さいのころに足袋たび製造・販売せいぞう はんばいはじめました。数年後すうねんごには工場制手工業主こうじょうせいしゅこうぎょうぬし発展はってんし、販路を拡大はんろ かくだいしましたが、文政ぶんせい9(1826)年頃ねんごろ行き詰いき づまり、塩田えんでんうみみずをかわかしてしおをつくる施設しせつ開発へ視点かいはつ してんえました。
 文政ぶんせい10(1827)ねんに、17万人まんにん人手ひとでと、420にち日数にっすうをかけて、味野・赤﨑両村あじの あかさきりょうそんおき塩田えんでん完成かんせいさせました。その塩田えんでん両方りょうほう地名の一字ちめい いちじずつをとって野﨑浜のざきはま名付なづけられ、武左衛門自身ぶざえもんじしん野﨑のざきという苗字みょうじ改名かいめいしました。武左衛門ぶざえもんはこのあといま玉野市や瀬戸内市たまのし せとうちしにも広大こうだい塩田えんでんをつくりました。
 また、岡山藩おかやまはん命令めいれいにより福田新田ふくだしんでん今の倉敷市いま くらしきし)の開発かいはつくわわり、嘉永かえい4(1851)ねん完成かんせいさせると、いま岡山市や玉野市おかやまし たまのし新田・塩田しんでん えんでん開発も成功かいはつ せいこうさせ、広大こうだい土地とち武左衛門ぶざえもん土地とちとなりました。
 塩田えんでん経営方法けいえいほうほう特徴とくちょうとしてかんがした、「当作歩方制とうさくぶかたせい」いう野﨑家独自のざきけどくじのやりかたは、明治近代めいじきんだい雇用労働関係こようろうどうかんけいのもっともすすんだやりかたとして有名ゆうめいです。
 塩田経営えんでんけいえい軌道きどうった天保末頃てんぽうまつごろ(1840年代ねんだい)から文化教養ぶんかきょうようめんでも活躍かつやくするようになり、茶道・華道・絵画さどう かどう かいが和歌わかなどの師匠ししょうがたびたびおとずれるようになりました。
 一代いちだい広大な塩田や新田を開発こうだい えんでん しんでん かいはつした武左衛門ぶざえもんは、「塩田王えんでんおう」とばれ、今日こんにちまで名声めいせいがひびきわたっています。

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